アタシの正体です・・・(>_<)\バキ。



某女満別空港の北側でアプローチしてくるYSを撮影しているアタシです。
はっきり言って「怪しい親父」そのものです。

当サイトは鉄道車両を1両ずつ撮影した画像を多く掲載しています。目的は模型制作資料としての活用です。そのため出来るだけ多方向からの画像を掲載するように努めています。中間車についても同様です。更新を重ねると同じ方向から撮影した画像も掲載してしまっているものもありますが、ダブりの確認が追いついてないので放置しています。(2016/12/11)

このページは久々の書き足しばかりですが・・・。未撮影の私鉄、JRの車両系列がだいぶん少なくなったので、夏頃からはこちらの更新に注力しています。公開両数の合計は増えているはずなのですが、あえて再確認はせずに鋭意更新を進めています。新幹線のE2系や719系電車など、未公開だった系列を一気に追加しましたので、それなりの増加量にはなっているはずです。今は肩こりと闘いつつ更新作業を続けていますが、作業待ちの画像データが19万コマあるので、このペースで進めていても作業完了まであと何年掛かるか見当がつかないです。とりあえず2017年もこのペースで画像を追加して行って、次の目標である40000両に少しでも近づけたいと思っています。(2016/12/11)

またまた久々の書き足しとなりました。公開両数は前回書き足した2009年からかなり増やすことができ、24000両を超えました。2010年頃から私鉄を中心に撮影両数を増やすべく、全国を撮り歩いてました。私鉄の編成表に掲載されている180社中未撮影が33社。この数を今年以降少しずつ減らして生きたいと思っています。3年くらいで回れたらいいかな・・・。(2015/01/28)

このコーナー久々に書き足します。実は今日公開両数10000両を超えました。このサイトを最初に立ち上げたのが、たぶん98年頃。それ以降何度も中断しながらもここまでたどり着きました。立ち上げ当初の目標が10000両公開でしたが、まだ公開していない画像が大量に残ったまま状態にも関わらず、最近また私鉄を撮り歩いているので、さらに在庫が増えている状況です。こごて改めて次のステップとして15000両を目標に掲げたいと思います。2009/12/06追記

当サイトについて・・・当サイトは管理人"Speed Birdがこれまでに撮影した画像を整理して、My写真帳として作り上げることを目的にしています。過去に撮影したフィルム約3000本を残らずスキャンして車番別に並べてしまうことを目標としています。撮影の基本が番号にこだわったものが多いので、写りが非常に悪いものでもフィルム上で番号が読めるものは並べてあります。また同じようなアングルの画像も多々並んでいますが、これも一旦は並べておいて、最終的には各車番毎に厳選していくつもりです(そこまでたどり着けるかどうかは判りませんが・・・)。2009/03/07追記

趣味について

鉄道・・・・小学校5年生からはじめて、大学在学の頃が最盛期、以後数年前まで細々と続ける。撮影対象の減少(国鉄型をメインとしていたが絶滅危惧種が多くなりすぎた)とともに休止。しかし国内エアラインからYS−11が引退し旅客機も形式統一が進み趣味としての面白みを求めて2008年以降鉄道に舞い戻りました。カメラをD700に買い換えて以降は番号集め熱が再発。関西関東の大手私鉄を中心に撮影し、D700は購入後6ヶ月で33000コマを撮影する勢い。鉄に踏み込むきっかけは小学校5年の時に同じクラスの友達から見せられた、1枚のDD51の写真でした。それまで大戦中の戦車や軍艦、戦闘機などが好きだったのですが、実物を間近に見ることが出来る魅力を感じて鉄道に転向してしまいました。高校を卒業する頃まではNゲージがメインで撮影にはあまり行ってませんでしたが、大学に入ると同時に国鉄職員の方と知り合いになったことで、いろいろな臨時列車運転の情報が入ってくるようになり、授業そっちのけで日々撮影にいそしむようになりました。特に工場出場時の試運転や広域転配(ほとんど平日に運転される)が大好き! カマ(機関車のことね)で一番好きなのはなんと言ってもDF50.。まともな写真が撮れるようになる前に全廃されたのが残念でした。大学生時代は国鉄末期、激動の頃と重なり、引退する車両が多く、それらを追っかけるのが日常的な鉄活動となり、その合間に新しい車両を撮影する状態。昭和57年11月の改正だったか、車両の余剰化が進み、引退していくものがあまりにも多くなりすぎて廃車回送ばかりを追っかるハメになった時には、知り合いの鉄仲間から「葬儀屋」と呼ばれたことも。これまで撮影した鉄道車両は、フィルム上で車番が確認でき、撮影済みとしてカウントしたものが約10000両ありますが、すでに9割以上は確実に廃車になっているハズなのでこれらを順次このWeb上で公開していくことをライフワークと考えています。さらに最近の車両も撮影し合わせて画像を公開して行ってます。今年の目標は公開両数30000両達成なんですけど。(2015/01/28改訂)

旅客機・・・1993年?に登場したANAのマリンジャンボがきっかけで旅客機に興味を持つ。それ以前から大戦中の軍用機には興味があり、プラモなんかけっこう作っていました。今でもマリンジャンボはアタシにとっては別格扱い。もちろんクルマのナンバーもマリンのシップナンバーと同じ8963。幼稚園に通っている頃から、伊丹空港のRWY14アプローチコースの直下に20年以上住んでいたので、旅客機に興味を持つのは当然の流れ?? 小学校低学年の頃にパンナムのB707やJALのDC−8が伊丹のRWY14にむけて、自宅の上空をアプローチして行っていたのを、今でもはっきりと覚えていたりします。鉄時代と同様になくなるものを追っかけているため、一時のメインターゲットはYS-11DC−10B767−200(でも好きな飛行機はB747SPだったりします)でした。これらを撮影するために各地の空港を回りつつ、他の機種も撮影していましてが、最近はこれらすべて引退して居待ったの出、活動休止中です。数年前に3回ほどロンドンへコンコルドの撮影にも行きました。2003年は前半を北海道で YS-11 を追いかけ、後半は鹿児島近辺に場所を移して YS-11 を追っかけています。2004年以降は鹿児島とその近辺の離島めぐりながらYS−11を追っかけてました。2006年に国内エアラインと航空局からYS−11が引退してしまいましたが、今後は自衛隊の航空祭にその姿を求めて行きます。下総もYS末期に何度か通ったのですが、既に引退してしまいました。去年から入間の航空祭が外せないものとなりました。(2015/01/28改訂)

クルマ・・・21歳で免許を取得し3日後には知人から譲ってもらった車を乗り始め、家の車を含めて10台を乗り継ぎ現在に至ります。趣味活動のアシとしても利用していましたので、特に鉄分が濃かった頃に乗っていたMR2では、日本各地を走り回り、これまでに西は長崎、南は熊本・大分・高知・和歌山、東は千葉、北は下北半島の尻矢崎を制覇しました。1日での最長移動距離は1240キロで、兵庫県の自宅を午前2時台に出発し、午前10時頃新宿の知人宅に寄って知人を乗せ、そのまま北上し青森市内に19時少し前に到着した、というのが最長でした(今はそんな元気はありません・・・)。現在所有しているムルティプラとロードスターが10年を超えたので乗換えを検討しているのですが、なかなかしっくりとハマるクルマがありません。ロードスターは2015年発売の5代目を狙ってみるつもりなのですが、ムルティプラのb747sp.saudi.vip@gmail.comわれがなくて困っています。これほど乗っていて楽しいクルマってなかなかないですからね。その他は、レンタカーではありますが、走ったところは南と西は石垣島・宮古島・与那国島・伊良部島・下地島・久米島・与論島・屋久島・種子島・沖永良部島、北は北海道の稚内と宗谷岬、東は網走・中標津あたりまで行きました。(2015/01/28改訂)

プラモ・・・小学校1年の頃から少しずつプラモを作っていました。小学校時代に軍艦〜軍用機〜戦車と趣向が変わり、その後Nゲージに転向し一旦休止。大学時代に一時復活し軍艦・軍用機・クルマをしばらくの間手を掛けるが根気の無い性格が災いして途中で頓挫。その時期に買い溜めたプラモが自宅のクローゼットに大量に眠ったまま、現在に至る。いわゆる「積んどくモデラー」です。

Nゲージ・・・小学校3年の頃だったか、初めて親に買ってもらった関水金属(懐かしい!)のキハ20とキハユニ26が記念すべき第1号。以後中学〜高校に掛けて、非常に少ないペースではあるが増備を続ける。大学に入りアルバイトをはじめて、金が自由になりはじめたところで金欠による呪縛がとけ、そこから怒涛の大量増備が始まる。その結果、最盛期には700両を越える大所帯にまで発展する。電車は必ず連結方向を限定しMM’ユニットをバラバラで連結するなどもっての他。キット改造もいろいろとやりましたが、スクラッチビルドはアタシには出来ず、2両ほど作りかけて、あまりの難しさにやめました。一時極端に冷めていた増備熱がここ3年ほど復活してしまいまして、怒涛の増備を続けています。最初コメントを書いた時は1400両を超えたところでしたが、前回で2700両となり、2009念12月に書き足した時点では3300両を超えるところまできていたようですが、今では5200両まで増殖してしまいました。そして禁断のHOゲージに手を出し、既に所有車両が300両となったことで、Nゲージと疎遠になってしまいました。一昨年新居を建ててHOゲージも直線が長く取れる長方形の部屋にしたのですが、NとHOをどう共存させるかの回答が出ていない状態です。(2015/01/28改訂)

パソコン・・・これまでに撮影したフィルムの整理ツールとして、大学時代の友人N氏(リンクページにある「Club 103」の管理者です)にいろいろと伝授してもらい使い始める。その後時間は掛かったものの、自分にとって無くてはならないものになってしまっていた。今では仕事もパソコンを管理する側の職場になってしまいました。趣味のパソコンと言っても、使い方は結構偏っていたりします。現在Windows7の32Bit機を使っていますが、次期のものはWindows10あたりで、少なくとも64Bit機にはしたいですね。メモリは大量に搭載して。(2015/01/28改訂)

カメラ・・・小学校4年の時に姉からコダックの110ポケットカメラをもらい受け、それを持って鉄道写真を撮り始める。5年生になった頃だったと思うが家にあったハーフサイズのキャノンのコンパクトカメラを親から貰い撮影に行く。その次は6年生になった頃に家に古くからあったらしいヤシカの一眼レフカメラを親から貰う。そして小学校を卒業した直後にそれまで長年貯めていた貯金をすべてはたいてニコンF2を購入。中学で写真部に入部し、高校でも写真学部に入部、鉄の道の精進に励む。この頃は模型の方にハマってしまい、撮影回数はあまり多くはなかったのでした。そして大学に入り撮影する機会が一気に増大し1回生の間にペンタ6×7を中古で購入。また高校の時の連れからニコンFMの中古を格安で譲り受け、予備機として配属することにする。鉄から飛行機に鞍替えした頃にF2の後継としてEos5とレンズを3本購入しいったんニコンからの脱却を図るもAFの信頼性にイマイチ不安を感じて、結局ニコンに戻りEos5一式を売却した資金でニコンF4を購入。そして2003年1月にD100を購入しデジタル化が図られることになりました。しかし連写性能が非常に劣っており泣くこと多々。2005年12月に待望のD200をゲットし、YSのラストを追いかけました。2009年3月にはレンズを買い替えました。2009年5月には高感度性能によさで一目惚れしてD700を購入し番号集め熱の再燃に活用しまくり。今のメインカメラとして稼動しています。高感度性能の向上は目を見張るものがあります。この初代D700の撮影コマ数が13万ショットを超え、メーカーの言うシャッターユニットの耐久が15万ショットだったので、2011年6月に同じD700に買い換えました。現在二代目のD700も12万ショットくらいは余裕で撮ってると思います。(2015/01/28改訂)

旅行・・・国内は鉄道を撮影している頃に沖縄以外の全県を訪問。飛行機を撮影するようになって沖縄にも行く機会がありました。海外は身内に渡航暦百回以上というベテラン添乗員がいまして、連れて行ってもらったことがあります。行った国はアメリカ・カナダ・香港・タイ・イギリス・フランス・オランダ・ドイツ・スイス・オーストリア・イタリア・バチカン市国でした。

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