アタシの正体です・・・(>_<)\バキ。



某女満別空港の北側でYSを撮影しているアタシです。
はっきり言って「怪しい親父」そのものです。

趣味について

鉄道・・・・小学校5年生からはじめて、大学在学の頃が最盛期、以後数年前まで細々と続ける。撮影対象の減少(国鉄型をメインとしていたが絶滅危惧種が多くなりすぎた)とともに休止。踏み込むきっかけは小学校5年の時に同じクラスの友達から見せられた、1枚のDD51の写真でした。それまで大戦中の戦車や軍艦、戦闘機などが好きだったのですが、実物を間近に見ることが出来る魅力を感じて鉄道に転向してしまいました。高校を卒業する頃まではNゲージがメインで撮影にはあまり行ってませんでしたが、大学に入ると同時に国鉄職員の方と知り合いになったことで、いろいろな臨時列車運転の情報が入ってくるようになり、授業そっちのけで日々撮影にいそしむようになりました。特に工場出場時の試運転や広域転配(ほとんど平日に運転される)が大好き! カマ(機関車のことね)で一番好きなのはなんと言ってもDF50.。まともな写真が撮れるようになる前に全廃されたのが残念でした。大学生時代は国鉄末期、激動の頃と重なり、引退する車両が多く、それらを追っかけるのが日常的な鉄活動となり、その合間に新しい車両を撮影する状態。昭和57年11月の改正だったか、車両の余剰化が進みなくなるものがあまりにも多くなりすぎて廃車回送ばかりを追っかるハメになった時には、知り合いの鉄仲間から「葬儀屋」と呼ばれたことも。これまで撮影した鉄道車両は、フィルム上で車番が確認でき、撮影済みとしてカウントしたものが約10000両ありますが、すでに7割以上?は廃車になっている模様。これらを順次このWeb上で公開していくことをライフワークと考えています。

旅客機・・・1993年?に登場したANAのマリンジャンボがきっかけで旅客機に興味を持つ。それ以前から大戦中の軍用機には興味があり、プラモなんかけっこう作っていました。今でもマリンジャンボはアタシにとっては別格扱い。もちろんクルマのナンバーもマリンのシップナンバーと同じ8963。幼稚園に通っている頃から、伊丹空港のRWY14アプローチコースの直下に20年以上住んでいたので、旅客機に興味を持つのは当然の流れ?? 小学校低学年の頃にパンナムのB707やJALのDC−8が伊丹のRWY14にむけて、自宅の上空をアプローチして行っていたのを、今でもはっきりと覚えていたりします。鉄時代と同様になくなるものを追っかけているため、最近のメインターゲットはYS-11DC−10B767−200(でも好きな飛行機はB747SPだったりします)。これらを撮影するために各地の空港を回りつつ、他の機種も撮影しています。数年前に3回ほどロンドンへ飛行機撮影に行きましたが、最近は国内での撮影が忙しく、海外へ行く余裕がない(資金もね!!)。2003年は前半を北海道で YS-11 を追いかけ、後半は鹿児島近辺に場所を移して YS-11 を追っかけています。2004年以降は鹿児島とその近辺の離島めぐりながらYS−11を追っかけてました。2006年に旅客便と航空局からYS−11が引退してしまいましたが、今後は自衛隊の航空祭にその姿を求めて行こうと思っています。

クルマ・・・21歳で免許を取得し3日後には知人から譲ってもらった車を乗り始め、家の車を含めて9台を乗り継ぎ現在に至ります。趣味活動のアシとしても利用していましたので、特に鉄分が濃かった頃に乗っていたMR2では、日本各地を走り回り、これまでに西は長崎、南は熊本・大分・高知・和歌山、東は千葉、北は下北半島の尻矢崎を制覇しました。1日での最長移動距離は1240キロで、兵庫県の自宅を午前2時台に出発し、午前10時頃新宿の知人宅に寄って知人を乗せ、そのまま北上し青森市内に19時少し前に到着した、というのが最長でした(今はそんな元気はありません・・・)。その他は、レンタカーではありますが、走ったところは南と西は石垣島・宮古島・与那国島・伊良部島・下地島・久米島・与論島・屋久島・種子島・沖永良部島、北は北海道の稚内と宗谷岬、東は網走・中標津あたりまで行きました。

プラモ・・・小学校1年の頃から少しずつプラモを作っていました。小学校時代に軍艦〜軍用機〜戦車と趣向が変わり、その後Nゲージに転向し一旦休止。大学時代に一時復活し軍艦・軍用機・クルマをしばらくの間手を掛けるが根気の無い性格が災いして途中で頓挫。その時期に買い溜めたプラモが自宅のクローゼットに大量に眠ったまま、現在に至る。いわゆる「積んどくモデラー」です。

Nゲージ・・・小学校3年の頃だったか、初めて親に買ってもらった関水金属(懐かしい!)のキハ20とキハユニ26が記念すべき第1号。以後中学〜高校に掛けて、非常に少ないペースではあるが増備を続ける。大学に入りアルバイトをはじめて、金が自由になりはじめたところで金欠による呪縛がとけ、そこから怒涛の大量増備が始まる。その結果、最盛期には700両を越える大所帯にまで発展する。電車は必ず連結方向を限定しMM’ユニットをバラバラで連結するなどもっての他。キット改造もいろいろとやりましたが、スクラッチビルドはアタシには出来ず、2両ほど作りかけて、あまりの難しさにやめました。今でも細々と増備を続けています。最近アリイが出す国鉄機関車群には参りました。もらさず安く買い集めるのが結構大変。と言いつつ、気が付けば1400両を超える所帯になってました。

パソコン・・・これまでに撮影したフィルムの整理ツールとして、大学時代の友人N氏(リンクページにある「Club 103」の管理者です)にいろいろと伝授してもらい使い始める。その後時間は掛かったものの、自分にとって無くてはならないものになってしまっていた。今では仕事もパソコンを管理する側の職場になってしまいました。趣味のパソコンと言っても、使い方は結構偏っていたりします。あくまでも撮影結果の管理ツールにしておきたいのですが、たまに日本橋やアキバを徘徊しています。

カメラ・・・小学校4年の時に姉からコダックの110ポケットカメラをもらい受け、それを持って鉄道写真を撮り始める。5年生になった頃だったと思うが家にあったハーフサイズのキャノンのコンパクトカメラを親から貰い撮影に行く。その次は6年生になった頃に家に古くからあったらしいヤシカの一眼レフカメラを親から貰う。そして小学校を卒業した直後にそれまで長年貯めていた貯金をすべてはたいてニコンF2を購入。中学で写真部に入部し、高校でも写真学部に入部、鉄の道の精進に励む。この頃は模型の方にハマってしまい、撮影回数はあまり多くはなかったのでした。そして大学に入り撮影する機会が一気に増大し1回生の間にペンタ6×7を中古で購入。また高校の時の連れからニコンFMの中古を格安で譲り受け、予備機として配属することにする。鉄から飛行機に鞍替えした頃にF2の後継としてEos5とレンズを3本購入しいったんニコンからの脱却を図るもAFの信頼性にイマイチ不安を感じて、結局ニコンに戻りEos5一式を売却した資金でニコンF4を購入。そして2003年1月にD100を購入しデジタル化が図られることになりました。しかし連写性能が非常に劣っており泣くこと多々。2005年12月に待望のD200をゲットしまして、今はメインカメラとして稼動しています。飛行機を撮影するようになったことで、ボディよりもレンズにお金が掛かるので、もうボディの増備はないかな・・・。

旅行・・・国内は鉄道を撮影している頃に沖縄以外の全県を訪問。飛行機を撮影するようになって沖縄にも行く機会がありました。海外は身内に渡航暦百回以上という現役添乗員がいまして、連れて行ってもらったことがあります。行った国はアメリカ・カナダ・香港・タイ・イギリス・フランス・オランダ・ドイツ・スイス・オーストリア・イタリア・バチカン市国でした。

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